公の心〜保科正之に学ぶ〜
こんばんは、パティです。
今日は、前回のブログにも少し書き残した
江戸時代屈指の名君「保科正之」
について書きたいと思います。
(恥ずかしながら、HEAVENESEの公演で知り、
感銘を受けました。)
・保科正之のプロフィール
保科正之は、江戸幕府2代目将軍、徳川秀忠の子として生まれました。
本来であれば、徳川の名を継ぐはずですが、秀忠は正妻・お江の方の嫉妬を恐れ、生涯自分の子と認めることはありませんでした。
秀忠が生きている間、正之は会津藩に隠されて生きていたのです。
秀忠の死後、3代目将軍家光は保科正之の誠実な性格に惹かれ、自分の実弟と認めた上で幕府において重用します。
その後、家光に任され、4代目将軍家綱の教育係として政治をサポートすることとなりました。
それから、民のための政策を行い、正之が行った平和政治は、260年以上続く江戸時代の礎となりました。
・保科正之の政策
①日本初の年金制度を作る
これは、会津藩主の頃の話ですが、藩の改革として、正之は豊作の時期に米を買い上げ、「社倉」を設けました。
これは天候不良などによる不作時の飢饉に備えての備蓄でした。
この「社倉」のおかげで、会津では餓死者が一切出なかったといいます。
また、老人には生活に困らないだけの米を支給しました。
これが、日本初の年金制度です。
現在の年金問題はさておき、この政策は当時の会津の民を救う政策でした。
②玉川上水を作る
正之は、江戸の一万軒に水を供給する玉川上水を作る上での、最大の功績者の1人といわれています。
当時、玉川上水を作ると言い出したときには、大老・井伊直弼から、「敵が上水を通って江戸に入り込めるようになるので、危険だ」と反対をされたそうです。
しかし、正之は戦の不利になるよりも、江戸に住む人々のためを思い、その思いに共感した人々と共に、玉川上水を作るに至りました。
③明暦の大火の再建費捻出
江戸城に天守閣がないのは、正之の政策によるものとされています。
明暦の大火の際、江戸城の天守閣が焼け落ち、なによりも天守閣の再建を急がねばならないという声が上がりました。
しかし、正之は「権力の見せしめのための天守閣再建よりも、人々の生活のためにお金を使うべきだ」と反論を起こします。
この意見に対しては様々な反対があったようですが、将軍の後見人でもある正之が人々のために炊き出しを行い、火事で家を失った人々への資金調達を行うことができたそうです。
江戸城の天守閣が無いのは、保科正之の公の心の証といっても過言ではありません。
他にも様々エピソードがあるのだろうと思いますが、印象に残ったものを書きました。
改めて、今の日本があるのは、保科正之のような公の心を持ったリーダーがいたからなのだと考えさせられました。
平和な今の時代にリーダーが考えなければならないのは、自分の利益よりも、人々のためにどう行動するかということなのだと思います。
こういう内容を、歴史の授業で取り上げたい!🤨
KNIXTも保科正之を見習い、公の心を持ち、行動していきます!
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